神なら清くできる…「聖ユスチノ殉教者の『キリスト者のための第一弁証論』」を読んで

【復活節第三水曜日】
 

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『毎日の読書』「聖ユスチノ殉教者の『キリスト者のための第一弁証論』」より
 
罪を犯した後、回心した人が、どのようにして罪を逃れるかについて、預言者イザヤを通して、神が次のように言っておられる。
「洗って、清くせよ。悪い行いをあなたがたの魂から取り除け。…」 

罪を犯しているとは

キリスト教は“人はみな罪を犯している”などと言うからイヤだ」という人がいると聞いたことがあります。
 
確かに、「あなたも罪人です」と言われれば良い気分にはなりません。
 
世の中にはいろんなものを信じている人がいます。
 
いえ、正確には関連の施設や場所に行っていても「本当に信じているわけではない」人も多いと思います。
 
その方が実はラクかも知れません。
 
しかし、キリスト教はそのように考えていません。
 
多くの人は法律に触れるような犯罪を犯していないでしょう。
 
けれども、人を傷つけたことのない人はいないのではないでしょうか。
そして、人を傷つける時、神をも傷つけているのだと思います。
 
「そんなの、みんな同じでしょ」
 
そう、だからこそ、全ての人が神の方へ向くことが必要なのではないでしょうか。
 

私の回心の道のり

私が聖書を読んだり教会へ行くようになったのは、「引きつけられたから」だと言えます。
 
聖書を買っても最初は訳がわからず、しばらく放置していました…。
 
教会へ行ける日が来るとは思っていませんでした。
 
私が教会へ行くと言ったら、「周りの人に困惑されるのでは」と散々迷いました。
 
私は誰にも言わず教会へ通い始めました。
 
その時は洗礼を受けるかどうかは考えていませんでした。
 
しかし、じきに「この神は本物だ」と感じました。
 
どうしよう、でも真実の福音に出会ったのにそのままにしていいのか、と葛藤しました。
 
結局、私は「洗礼を受けたい」と両親に伝えました。
 
「ゲルトルード(※筆者)の人生だから」と反対はされませんでした。
 
私が教会に強く引きつけられて変わったことを両親は感じていたそうです。
 

罪から逃れるための道

さて、では洗礼を受けたらずっと清いままでいられるのでしょうか。
 
残念ながら、私はまだまだ罪から無縁ではいられません。
 
むしろ、「自分はなんて心の狭い人間なのだろう」と思うことが増えました。
 
しかし、神と人を愛したいと強く思うようになりました。
 
確かに、それはラクな状態ではありません。
 
「完全」からは程遠いですが、良い方向に、神が喜ばれる方向に、少しずつでも近づいているのだと思います。
 
自覚のない時も、神が日々いろいろな助けを下さっているはずです。
 
 
最後までお読みいただきありがとうございます☆

わからない道だから羊飼いを頼りにしよう…「聖ベダ司祭の『ペトロの第一の手紙注解』」を読んで

【復活節第三月曜日】

 

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『毎日の読書』「聖ベダ司祭の『ペトロの第一の手紙注解』」より

 

わたしたちはキリストの恵みに照らされ、導かれて、

この秘儀〈※キリストによって罪が贖われたこと〉によって天の住まいの光へ向かって歩いていく。

 

この恵みの光は、イスラエル人の旅の間中、夜の闇に対して彼らを守り、約束の地へ向かって確実に導いた雲と火の柱によっても表されている。

 

 

 

 

自分の努力で信仰を保てるわけではない

人は「私は、この神を/キリスト教を信じることにしている」と言えません。

 

私は洗礼を受ける前に、「私は洗礼を受けよう」と思いました。

その決断をしたのは私だと思っていました。

 

確かに、私はそう言葉にすることで、自分の信仰を宣言しました。

しかし、そういう思いにいたるまでの道のりがあり、考えさせられる時間がありました。

 

そのように働きかけられたのは神なのでしょう。

 

私の家族や友人にキリスト教徒はいませんでした。

それでも、神は教会や聖書に近づくよう働きかけられました。

 

 

私たちの人生の歩みは神に導かれている

洗礼を受けたら、罪からまったく離れてすばらしい人間になれる…わけではありません。

 

どうしたらいいの?と困惑することもあります。 

人生は順境と逆境のくり返しです。

人間には荷が重いです…。

 

そんな時、私たちの神は「こっちへおいで」「そっちへ行ってはダメだ」と導かれます。

「迷える小羊」を導く羊飼いとして。

 

たとえ、一人で決断しなくてはいけないことがあったとしても、私たちは本当に一人なのではありません。

 

思い悩んでいる時、パッとアイデアが浮かぶことがあります。

思わぬ助っ人が現れることもあります。

 

普段は、その瞬間のことで精一杯になっていて気にとめられないことが多いかも知れません。

 

しかし、私たちは思っている以上に「自分の力だけで何とかして」いるわけではありません。

 

そのことを、時々でも思い出すと、日々の労苦も軽くなるのではないでしょうか。

 

 

恵みの光を見失わないこと

洗礼を受けたら、今後の人生は安泰…というわけにはいきません。

やはり人生にはいろいろな困難があります。

 

そのために、神を忘れたり、遠く離れることもあります。

 

ですから、私は三位一体の神・教会・聖書から離れないように、と心にとめています。

 

そう思うこと自体、神からの導きなのでしょう。

 

神に従っていきたいと思っても、もっと気楽な道があるように感じられることもあります。 

 

そのようなことを感じたのは私だけではないはずです。

 

それでも、私たちに寄り添い続けておられる神を信頼できる私たちは幸いです。

 

神の導きを感じて、信じて、歩んでいきたいです。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます☆

神がわからないからこそ知りたくなる…「シエナの聖カタリナおとめの対話録『神の摂理について』」を読んで

4月29日【聖カタリナ(シエナ)おとめ教会博士】記念日

 

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『毎日の読書』シエナの聖カタリナおとめの対話録『神の摂理について』」より
 
永遠の三位一体よ、あなたは深い海です。
あなたを求めれば求めるほどそれだけ見出し、見出せば見出すほど、それだけ求めるようになるのです。

 

もくじ

 

 

永遠の三位一体

三位一体は永遠です。
 
人間とは違うのです。
 
「永遠」も「三位一体」も人間から離れたことです。
 
ですから、正直なところ私はわかったようでもいまいちピンときていません・・・。
 
それでも、聖書が語る神は永遠であり三位一体だと受けとめているのは、確かに聖霊の働きなのでしょう。
 
人間の考えでは説明がつかないことも神ならなさるでしょう。
 
神を信じる人にとっても「三位一体」は理解しにくいものです。
 
私の及ばない考えですが、「三位一体が人間の救いのためには必要だった」のではないでしょうか。
 
三位一体の神であることを私たちが知り、それによって示されたいことがあるのではないでしょうか。
 

深い海

神は人間が知るにはあまりに大きな存在です。
 
深い深い海…果て知れない海です。
 
把握することはとてもできない世界であるために神を恐れる気持ちもあります。
 
海は恵みをもたらしますが、きびしい面も持っています。
 
神は人間に対してきびしく接されるなと思うこともあります。
 
人間に何に対しても「いいよ」と言っていたら、人間はやりたい放題でしょう。
 
しかし、そのきびしさも人間をより良い方向へ向かわされるように用いられます。
 
どこまで潜れる海なのかわからないので途方にくれますが、それほど恵みも深いのだと思います。
 
悩み多い、罪の多い人間を救うには、人間には把握できないほどの恵みでなければならないのでしょう。 
 
 

求めるほど見出し、見出すほど求めるようになる

神の考えは、人間には受けとめきれないので戸惑うことも多いです。
 
神の思いを知るのは難しいです。
 
少し「わかった!」と思っても、すぐにわからなくなります。
 
それでも、神を知りたいと思うからこそ少しでも「わかった!」と思える時があり、
 
少しでもわかったからこそ、
 
なお計り知れない神の考えを知りたいと心を向けて頭を使って神に向かうことができます。
 
 
最後までお読みいただきありがとうございます☆

本当の幸せな状態に近づく…「古代の著者による復活祭の説教」を読んで

【復活の水曜日】 
 

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『毎日の読書』「古代の著者による復活祭の説教」より
 
「父よ、わたしを信じる人々をわたしのいる所に、ともにおらせください。」
 
キリストを信じる人が天の国に受け入れられるには、キリストの足跡に従いなさい、とのことです。
 
「右のほほを打たれたら、左のほほをも向けよ?
そんなことしたら、相手はここぞとばかりに攻撃してくるんじゃない?
そんなの非現実的じゃない?」
 
そう、キリストの言葉や行いは「世の中の非常識」です!
 
人に優しくしたい、広い心で受けとめたい…
そう思っても、私はささいなことで怒り、イライラします。
そして、自己嫌悪におちいることをくり返しています。
 
私はおろかな理想を実現しようとしているのでしょうか?
そんなことを思わなければ、自己嫌悪におちいることもないのに…。
 
何がしたいのでしょう。
 
それでも、神と人を愛したい。
自分が愛してもらったのだから。
 
私がひとりでできることなど、どれぐらいあるでしょう。
いや、正確に言えば、今の私が「できると思っていること」でさえ、神から与えられたもの・人が助けて教えてくれたことです。
 
キリストの足跡に従うことは難しいと思っています。
 
「私のくびきは負いやすく荷は軽い」
そんなこと思えないんです...。
 
やっぱりツライです。
 
でも、神と人を愛したいのなら、キリストの足跡に従う道が必要なのでしょう。
 
それは、人には難しいことだから、そのお手本が私たちに示されたのだと思います。
 
「そのお手本」は厳しいようだけども、なんとかして私たちがついてこれるように気にかけて下さっているのですよね。
私たちが思っている以上に。
 
人はすぐ神のことを忘れてしまいます。
日々の生活に追われていますから。
 
人はすぐ自分以外の人への配慮を忘れてしまいます。
自分のことで精いっぱいだから。
 
自分を大切に思うのは自然なことです。
でも、自分のことばかり大切にしていたら、自分ひとりで生きていないのはなぜでしょう?
 
ともに生きているのは、ひとりでできないことがたくさんあるからだと思います。
 
神も人も互いに愛し合えるなら、世界はもっとすばらしいものになるのでしょう。
それが、人にとって、本当の幸せな状態だと思います。
 
難しいけれど、少しでも神と人を愛せるなら、思いを向けられるようになれば、良い方向へと変わっていけると希望を持っています。
 
 
最後までお読みいただきありがとうございます☆
 

この神が気になって仕方がない…「アンチオケの聖アナスタジオ司教の説教」を読んで

【復活の火曜日】

 

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『毎日の読書』「アンチオケの聖アナスタジオ司教の説教」より

本来は苦しむことのない神のみことばが苦しみを受け入れられた理由を理解しましょう。

その理由は、人間が他の方法では救われることはないということです。

これを知るのは、主と、主が示そうと思う者のみなのです。

 

「 キリストが救い主なら、なぜあんな殺され方をされるのか。

そんな人間が救い主のはずがない」

 

そう言われたことがあります。

 

そう考えるのは無理ないことだと思います。

 

「救い主」と言うからには、特別な力を持っているはず・・・。

罪人として処刑された人間を、「人を救うために、そのように死ぬ必要があった方」と考えるのは、「自然な考え方」ではないと言えます。

 

「キリストは人々を救うためにあのように死ななければならなかった。

神でありかつ人である必要があった。

神であるから死に打ち勝つことができ、

人であるから人間の喜びや苦しみを知り、死ぬということも可能になるから」

 

そう受けとめている今でも、ふっとある思いがよぎります。

 

「そうしなければいけなかったのだろうか…。

人は苦しい時にこそ神を求めるのに、そういう神を人が受け入れられるものだろうか。」

 

それでも私が聖書を読み続けるのは、その方を至上の存在だと思わざるをえないからです。

それこそ、「人知を超えた神の力」と言うしかない状態です。

 

人が神のすべてを把握できないから神なのです。

 

植物や動物のことだって、人にはまだまだわからないことがたくさんあるわけではないですか。

 

だから、私は人が把握していることがすべてだとは思っていません。

人がすべてを把握できるほど、この世界は小さいものでもないと思っています。

 

世の中には、人生には、苦しいことがたくさんあります。

 

病気であれ災害であれ、人を正しい場所へ連れ戻すために役立つことがあるとしても、「何もここまで苦しいことに合わせなくとも良いのではないか」と思うこともよくあります。

 

「どうしてここまで」と何度も思うけれども・・・

 

それでも、この神が気になって仕方がないのです。

 

その神を完全に把握することなどもちろんできませんが、少しでも理解を深めたいと読書に向かっています。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます☆

世界を見つめよう…「サルデスのメリトン司教の過越祭における説教」を読んで

※2019年4月23日更新

 

【復活の月曜日】

 

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『毎日の読書』「サルデスのメリトン司教の過越祭における説教」より

愛する皆さん、理解していただきたい。

いかにあの過越の神秘が、新しいものでありながら古く、永遠でありながら一時的であり、朽ちるものでありながら不朽であり、死ぬものでありながら不死であるかを。

 

この文だけ読むとなんだかよくわかりませんよね。

 

矛盾しているようだけれども、そのひとつひとつが真実・・・

というのが聖書の世界、キリスト教の信仰です。

 

「神であり、かつ人間」ということが、まず一般的に考えれば「矛盾している」ということになりますよね。

 

それを信じられるというのは、確かに人間の「常識」を超えています。

 

人は世界のすべてを把握できません。

 

私が知っていると思っていることは、世界のほんの一部だと心得ていれば、謙虚になれると思います。

 

もっと、ものごとを深く見られるようになると考えています。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました☆

はじめに

自分の伝えたいことを書いて、多くの人に読んでもらいたい・・・。

そう思ってきました。

 

しかし・・・「これは読む人が満足してくれるだろうか」

「これぐらいの内容の文章を公開するのはどうなのだろうか」・・・

 

そう思ったら、書くことが苦しくなりました。

 

このブログはどれぐらい読まれるでしょうか。

今はただ、そういうことを考えず、書いていきたいです。

書くことを恐れず、ただ日々書き続ける。

まずはそうしていきます。