この神が気になって仕方がない…「アンチオケの聖アナスタジオ司教の説教」を読んで

【復活の火曜日】

 

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『毎日の読書』「アンチオケの聖アナスタジオ司教の説教」より

本来は苦しむことのない神のみことばが苦しみを受け入れられた理由を理解しましょう。

その理由は、人間が他の方法では救われることはないということです。

これを知るのは、主と、主が示そうと思う者のみなのです。

 

「 キリストが救い主なら、なぜあんな殺され方をされるのか。

そんな人間が救い主のはずがない」

 

そう言われたことがあります。

 

そう考えるのは無理ないことだと思います。

 

「救い主」と言うからには、特別な力を持っているはず・・・。

罪人として処刑された人間を、「人を救うために、そのように死ぬ必要があった方」と考えるのは、「自然な考え方」ではないと言えます。

 

「キリストは人々を救うためにあのように死ななければならなかった。

神でありかつ人である必要があった。

神であるから死に打ち勝つことができ、

人であるから人間の喜びや苦しみを知り、死ぬということも可能になるから」

 

そう受けとめている今でも、ふっとある思いがよぎります。

 

「そうしなければいけなかったのだろうか…。

人は苦しい時にこそ神を求めるのに、そういう神を人が受け入れられるものだろうか。」

 

それでも私が聖書を読み続けるのは、その方を至上の存在だと思わざるをえないからです。

それこそ、「人知を超えた神の力」と言うしかない状態です。

 

人が神のすべてを把握できないから神なのです。

 

植物や動物のことだって、人にはまだまだわからないことがたくさんあるわけではないですか。

 

だから、私は人が把握していることがすべてだとは思っていません。

人がすべてを把握できるほど、この世界は小さいものでもないと思っています。

 

世の中には、人生には、苦しいことがたくさんあります。

 

病気であれ災害であれ、人を正しい場所へ連れ戻すために役立つことがあるとしても、「何もここまで苦しいことに合わせなくとも良いのではないか」と思うこともよくあります。

 

「どうしてここまで」と何度も思うけれども・・・

 

それでも、この神が気になって仕方がないのです。

 

その神を完全に把握することなどもちろんできませんが、少しでも理解を深めたいと読書に向かっています。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます☆